「安保法制違憲訴訟」傍聴記

★2017年9月28日(木):国家賠償請求訴訟の第5回公判
介護の必要な老母がショートステイに行ってくれたので、6月に続いて傍聴へ。
裁判所に着いた時には、すでに抽選が終わっていて、諦めて帰りかけたら、傍聴券を持っている人が、国会前の抗議活動のほうへ回るからと、譲ってくれて、ラッキー!

金属探知器の門をくぐって、いつもの103号法廷へ。
開廷後、まず、原告側と被告側と裁判所の間で、書面や手続きについての確認事項があったようですが、マイクの音声が小さくて、内容がよくわからず。傍聴席では、聞こえませ〜ん!と声をあげようか、またそれを口実に廷吏にごちゃごちゃ言われるのもつまらないな、どうせ専門的なやり取りは聞こえても大した意味がないから…という声なき声がウェーブになってる感じ。

やがて、「意見陳述」に入り、今回はまず、原告代理人(弁護士)から、論点整理の陳述が3つありました。(ここからマイクの声はよく聞こえるように。)

・立法事実なき強行採決:安保法案提出時の首相会見で、絵入りのパネルで説明された「危険地域からの国民の退避支援」「ホルムズ海峡での掃海」などの「この法律が必要な理由=立法事実」が、国会審議の中で、どれも否定された。にも関わらず、強行採決を重ねて成立させたというのは、立法府=国会を無視したもので、違憲である。
・新安保法成立後の運用の違憲性:平成29年4月以降、北朝鮮をめぐる状況を理由に、海上自衛隊の艦艇による米艦防護や給油などが行われている。しかし、その内容が国会などに報告されておらず、しかも「防護」の対象が米軍の軍艦など「武器」であることから、集団的自衛権行使に当たる可能性があり、国民が知らないうちに戦争に加担する可能性がある。このことの違憲性。

・裁判所の違憲審査について:(諸外国の例との対照もしつつ)国の政策についての裁判でしばしば持ち出される「統治行為論」は、その前提に、国民の合意と国会の承認がある。今回の強行採決による議決は、これにも反する。
 裁判官の職責として、最大の人権侵害である戦争から国民を守ることがあるはずだ。
 内閣法制局が、内閣内部での違憲審査の職責を放棄して(させられて)しまった。同じ司法に関わる者として、また憲法を学んだ者として、違憲の政治に対して強く気高く(壁として)そびえ立ってほしい。
次に、前回までと同様に、様々な生活の場から、原告となった理由を述べる意見陳述が行われました。

・元・国鉄マンで現在JR職員:公共交通機関は、戦争になったら真っ先に動員される職種です。ということは、敵対側からの攻撃の対象となるということです。いつまでも平和な世の中で安全な交通機関でありたい。戦争を呼び込む恐れのある安保法は廃止してほしい。
・1941年生れで、仙台の大空襲にあった。父の知人が直撃を受けて亡くなり、焼け残った我が家に遺体が運ばれてきた。幼かった私は、家族の制止をくぐって、座敷に遺体を見に行き、白い粉のようなものが畳のうえに散らばっているのを見た。幼心に、見てはいけないものを見たと心に秘めていたが、戦後70年ほど経った時、兄と話したら、兄もそれを見ていて、あれは死体にたかったウジだったという。空襲は7月だったから、遺体からは強い臭いも出ていて、兄は外からヤマユリを大量にとってきてかぶせ、臭いを消そうとしていたと話してくれた。戦争の記憶は、幼心に深く傷をつける。平和憲法を逸脱した安保法制には反対する。

・原発作業者:3.11の大震災が起きた時、福島県浪江町に住み、原発作業員をしていた。震災が発生した時には、女川原発に出張していた。しばらく自宅に帰れず、家族のことを心配した。後で判ったのは、家族は自宅よりも高濃度に汚染された地域に避難誘導されていた。SPEEDIが適切に使われていなかったからだ。口惜しい。
 現在は、飯坂温泉の復興住宅に避難している。3.11当時幼稚園児だった長男は、よく風邪を引くようになった。免疫力の低下を懸念している。周りの人たちからも、いろいろ放射線被害についての疑問や懸念を聞く。
米国とともに戦争に加担する国になれば、世界からうとまれ、敵対することになる。戦争になれば、原発は狙われ、新たな放射能被害が起こる。子どもたちの将来にそんな不安が残らないように、大人としての義務を果たしたい。安保法は廃止させたい。
原告・被告側と裁判所を交えての打ち合わせ日時の取り決めなどあって、閉廷。
この後、別会場で行われた集会には参加できませんでした。(「平和憲法施行70周年記念アピール」が出ているようです。下のリンクボタンで。)

次回公判は、2018年1月26日(金)13:30開廷。             (SH)

★2017年6月2日(金):国家賠償請求訴訟の第4回公判
時間がとれたので、初めてこの裁判の傍聴へ。
毎回、法廷の収容人数を上回る人が集まっているそうですが、今回も、傍聴券は抽選になり、外れた人も出たもよう。

しかし私は当たって、無事に103号法廷へ(東京地裁でいちばん大きな法廷だそうです)。

最後にこの裁判所に傍聴に来たのは、たしかイラク戦争のころで、各地で自衛隊派遣反対のビラをマンションや官舎にポスティングした人たちが逮捕される事件があった時。
その中のある公判の日、傍聴券の抽選に当たって開場を待っていたら、「赤旗」と腕章をつけた人が「どなたか傍聴券を譲っていただけませんか?」と呼びかけていた。聞いてみると、「司法記者クラブ」に入ってないメディアは、記者席に入れてもらえないのだそう。政党機関紙の記者が記者席に入れないと知って驚いたものです。(他に誰も譲らないなら、傍聴券を渡して帰るかなと思いつつ、そんな話をしていたら、譲ってくれる人が他に出てきました。法廷に入ると、「記者席」には空きがあったのに…)

さて冒頭、前回公判までに出された被告(国)側からの「準備書面」への反論という、法律論が原告(市民)側弁護士さんから、いくつか述べられました。

大ざっぱに言うと、この訴訟は「安保法制」によって原告(市民)が受けた被害を賠償しろという訴えになっているが、具体的な被害ではなく、漠然とした不安などでは、国が賠償すべき被害とは言えない、というような主張を、被告(国)側がしていることに対する反論というわけです。
反論の主な論点は、被害は具体的であること(戦争体験を持つ市民にとっては悲惨な経験を思い出して精神的に不安定になったりするし、自衛隊員を家族に持つ市民にとっては家族の生命と生活に関する懸念で暗い気持ちになる、母親は自分たちの子どもが具体的に戦争の被害者・加害者になることへの切迫した恐怖から反対運動に参加するほどの苦痛を受けた、日本が「戦争に加担する国」になることで海外での安全が脅かされるNGO活動、など)、政府により違憲の立法を行われたために損なわれた主権者としての国民の権利が侵害されたこと、こうした「平和的生存権」「人格権」を国賠法の対象とした判例も存在すること、など。
メモをとるのに、どういう表記をするのか浮かばないような法律用語も出ては来ますが、どの弁護士さんたちも、素人の市民が傍聴していることを前提に陳述してくれていて、おおよその意味は理解できました。

次に原告団から3人の意見陳述がありました。
まず、キリスト教会の牧師さん。教会の会員には、戦争体験者も多く、今回の立法だけでなく、現政権の進める戦時中を思わせる教育政策など、不安を訴える声が多くなったこと。また、自身の米国の神学校への留学時には、湾岸戦争が行われていて、通っていた黒人教会からは軍の奨学金を受けたために戦地へ送られる青年たちも多く、「自爆テロで友人が目の前で亡くなった」「殺人の道具と成り果てた自分に嫌気がさす」などの戦地からの手紙が礼拝の中で読み上げられることもあり、戦後は、PTSDに悩み薬物に溺れる退役兵とその家族のことなどを知った。また、戦時中に戦争に加担したキリスト教会の苦い歴史もある。


続いて、ジャーナリストの女性は、1949年生れで、子供の頃、周囲には生々しい戦争の記憶を持つ人たちが大勢いて、その体験を聞いて育った。一方で、「戦後民主主義教育」を受けて育った世代なので、大人たちには「いい時代に育って」と言われた。ところが、いつの間にか、こうした価値観を否定するような空気が漂いはじめたように感じる。

 

3人目は、エッセイストの渡辺一枝さん。1945年1月に「満州国」のハルピンで生まれ、父はその7月に現地召集されて、「この戦争は、じきに日本が負けて終わる。必ず帰るからイチエを頼む」と母に言って出たまま還らなかった。墓の中に骨すらもなく、戻ってきたのは紙切れ一枚。自分の名前が父の形見となった。その後、帝国主義・軍国主義に反対だった両親が、なぜ出征を拒否し止めなかったのか、なぜ日本が中国を侵略して作った「満州」で私を生んだのか、と両親を恨み、母に心を閉ざした。母が亡くなったあと、ハルピンをはじめ旧満州の各地を訪ねる旅を重ねるにつれ、現地の人々の当時の暮しや思いを聞く機会を得た。そのことを通じて、人は自分の人生だけでなく、時代についても責任を持つのだと思う。戦争のない平和な世界を願うのは、国家を超えて人としての願いなのだ。

三者三様の体験から、戦争への道を開く安保法制に反対する、という陳述でした。
次回公判(国賠訴訟)は、9月28日(木)15:00から。14:00から地裁前でのアピール活動があり、公判開始30分前くらいから傍聴券の抽選と配布があります。      (SH)

★2017年3月3日(金):国家賠償請求訴訟の第3回公判
予定通り傍聴へ。
しかし、傍聴券抽選にまさかまさかの落選。

偶然居合わせた知り合いにぼやいていたら、原告団で代理で当選した方が「使ってください…」と傍聴 券を譲ってくださるという幸運。
無事傍聴してまいりました。

今回も伊藤弁護士含む弁護団の方々が厳しく国側の違法性を追及。
いっぽう被告弁護団は相変わらず傍聴席には届かないような小さな声で、事務的な受け答えでのらりくらり…。

原告団からは3名意見陳述がありました。
長崎県から被爆者の方、元NHK報道記者、レバノンの難民キャンプで里親運動をされていた方。
毎度のことですが、どのお話も感動的で、もっと多くの方々に、この生の声を聴いて欲しいと感じました。

元NHK記者の方は、まだ学生のお子さんもいるような世代だというのに、政府からの圧力で客観的報道が許されず、ジャーナリストとしての在り方に悩み、自分の信念を選択して退職したというお話でした。
傍聴席から拍手が上がる場面もありましたが、裁判官も黙認という感じでお咎(とが)めはありませんでした。

毎度同じような流れということで、裁判官からは「いつまで続けますか?」と結審を迫られましたが、弁護団の方はまだまだ話がついていない、と継続を希望していました。


取りあえず次回公判は6月2日(金)、次々回は9月28日(木)と決まっています。
私は皆勤を狙っていたのですが、曜日が変ると仕事のため行けません…。    (IN)

★2017年1月26日(木):神奈川でも違憲訴訟の公判が始まりました。
【神奈川の友人から送られてきた傍聴記(くじ引きに外れて、会見の報告のみ)を転載します。】
254名の原告団とサポーターを入れて、300人余りが、横浜地裁前に集合。
第一回口頭弁論に用意された一般傍聴席46に対して傍聴希望者は192名、抽選に臨む人波が横浜地裁ロビーを埋め尽くした。私は原告枠の抽選にも、一般枠でも見事にはずれたため、報告集会の資料と写真をお送りします。
15時から、神奈川での最初の口頭弁論が行われました。原告団3人が、意見陳述を行いました。国側は、原告の平和的生存権主張は、漠然とした不安に過ぎないとし、違憲訴訟は、裁判になじまないとして、却下を求めてきました。
関内ホールでの報告集会での記念講演では伊藤真弁護士から世界平和度指数(グローバル・ピース・インデックス:GPI)が紹介された。
オーストラリアに本部がある経済・平和研究所(IEP)がこの10年ほど発表しているもの、2016年は163ヶ国中、シリアが最下位の163位。南スーダンは162位だ。
今、最も平和からはほど遠い、最も危険な戦争状態の国、ということだ。

伊藤真弁護士は
裁判官にかかるプレッシャーは並大抵ではない。それを支えるのも、傍聴行動を含む市民のバックアップ。
憲法破壊を止めるのは市民。「専門家」に任せていてはダメということを私たちは原発事故で思い知った。
憲法はこの国に欠かせないインフラ。その整備が始まったのが70年前。私たちは70年前、憲法を託された。
「請願権」「表現の自由という人権」「選挙権」、この3つを行使すること。
裁判官の心に響くことばを伝える、心に訴えかける、それは原告にしかできないこと。
私たちは自由を享受してきた。だからそれを次代に伝えていく責任が私たちにはある。
違憲の事実をいくら積み重ねても違憲は違憲!その怒りを闘いの力に変えて行く。
敗北主義には与(くみ)しない。信頼できない司法と言うなら、私たちの力で変えて行けばいいんです。
締めくくりに次のことば

Festina Lente (ゆっくりいそげ)                 
 あわてず、焦らず、
 何があっても絶対に諦めず、
 一歩一歩が大切。                        (TS)

★2016年2月3日(金):国家賠償請求訴訟の第2回公判が開かれました。

今回は、傍聴席を求める抽選こそなかったものの、法廷に入ると傍聴席は満席でした。

原告からは3名が意見陳述に立ちました。
1人目は元海運会社の船員の方:1991年からの第1次湾岸戦争の時、世界各国の輸送船400隻以上が攻撃された中、日本の国旗を掲げた油送船(オイルタンカー)はペルシャ湾で攻撃を受けなかった。それは、平和の象徴である憲法9条のおかげだった…と。
今後、輸送船員には自衛官まがいの役割を負わせるとか、海運会社と政府が億単位で協力する契約を交わしている等々、怪しさ満載のお話でした!
2人目は長崎からの原爆被害者(女性):小学生の時、外出している間に被爆。
帰宅すると家は焼け野原、焼けただれた人が数珠つなぎで列をなして歩いている光景が今でも甦り、その時の原爆で母親と妹は帰らぬ人となったそうです。
翌年に父親も亡くなり、ご本人は被爆したということで差別を受けていた…。
3人目はキリスト教の牧師さん:武力によって武力を制することは、キリスト教の教えに反する。

戦時中、キリスト教会は弾圧を受け、伊勢神宮に参拝した りゼロ戦を献納することを強要されたそう。
牧師本人は10代の頃家族でインドネシアへ移り住み、15年居住。
その間、日本軍がしてきたことから現地人から差別にあったが、過去を謝罪することによって、信頼関係を築くことが出来た…というお話でした。
被告(国)の弁護団は前回に引き続き「認否の要を認めない」の一点張りでしたが、裁判長から次回までに反論書面を提出するよう促されたことには、少しホッとしました。
次回以降の公判は3月3日(金)10時半~、6月2日(金)10時半~と決定(いずれも東京地裁にて)。
私は何の力も持っていないけれど、様々な世代が関心を持っているということを、裁判官や弁護団に知らせたい。仕事のやりくりのつく限り、傍聴に出かけたいと思います。(IN)

★2016年9月29日(木):違憲の疑いのある安保法制が発動されるのを裁判所の命令によって差し止めることを求める裁判の初公判が、東京地裁で開かれました。

傍聴に行くことができませんでしたが、公判後の記者会見で、司会者に「今日の公判で、富山さんの陳述書が読み上げられた時、法廷は、被告の国側代理人も裁判官も傍聴席も含めて、しーんと静まりました。もう一度、読んでいただけませんか?」と促され、二度は無理ですと、困惑したような表情を浮かべた富山さんは、自衛官を息子に持つお父さんです。

自己紹介をして、2001年の「9.11ニューヨーク同時多発テロ」の後、イラク戦争を始めた米国で、「ブッシュの中東石油利権のための戦争に、息子たちを派遣させるな!」と立ち上がった家族がいたこと、その後、イラクから帰還した兵士たちに、PTSDやアルコール・麻薬依存、暴力事件などが起き、毎年大勢の自殺者が出続けていることなどを語ったあと、記者席を見回して、「売名行為だと言われても構わない、伝えてほしい」と、おもむろに陳述書を再び読みはじめました。
平和への願いと、息子への思いのこもった、その富山さんの言葉を文字起ししたもののリンク先を下に掲げます。(2ページに収めるため重複した言葉を少し整理しました。)

ダウンロード
富山正樹氏陳述_抄2b.jpg
JPEGファイル 630.8 KB

★2016年9月2日(金):「平和に暮らす権利を侵害された」として国家賠償を求める裁判の初公判が、東京地裁で開かれました。
傍聴のための整理券を求める人は150人くらい。これに対して傍聴席は98で、その内8席はメディア席なので、一般の傍聴人は90人まででしたが、私とこの日裁判所で出会った知り合いの人とは幸いにも当たりました。


後から聞いて分かったのですが、被告席に座っていたのは若手官僚約16名ほど。
一番最初にこの中の被告代理人が発言したのですが、早口でごにょごに ょマイクなしで話していたので、全く聞き取れず。

これも後からわかったのですが・・・なんと「意見陳述の必要がない・・・」というようなことを言っていたそうです!
裁判長が即却下してくれたそうで、スムーズに進んだので、全く気づきませんでした。
そういう意味でも司法側はきちんと向き合ってくれそうな気配です。

原告代理人として5名の弁護士さんがいらっしゃいましたが、やはりお話は眠くなりそうで・・・
唯一、伊藤弁護士は人柄がよく表れているというか、はきはきと分かりやすいお話ぶりで目が覚めました。

そして、原告代表の5名の市民の方々のお話も、どれも心に響く素晴らしいものでした。
一人の方は、ご自身が高江に行って目にしてきたことなど、暴走する政府について熱弁してくれました。
裁判官の方々も聞き入り、時には頷くような時もありました。
27歳の女性で、13歳から反戦運動の活動をしているという方、戦争と平和を研究する大学教授、横須賀に住み、基地がテロの標的となることを危ぶむ方、東京大空襲で家族を失った女性、どの話にも裁判官の方々はしっかり耳を傾けている様子でした。

次回もスケジュール的に大丈夫そうなので、引き続き見届けに参りたいと思っています。
また被告側は意見陳述をさせないように、妨害してくるだろうと弁護士さんたちは話しているそうです。

報告会までは残れませんでしたが、記者会見までは見てきました。
NHKの女性記者は熱心に質問していましたが・・・あとはどちらの方でしょう?
報道の方少なかったです。

妨害などもあるでしょうし、時間もかかることとなるでしょうが、
弁護団側の違憲としてこの裁判を勝ち取る自信を持っている姿は、本当に心強いものです。
                                     (IN)